カーテンの隙間から差し込む光に気づき、ウルフガードは椅子の上で固まった体を伸ばした。軋む肩を軽く回してから、モニターに表示されたままになっている動画をもう一度だけ再生する。音楽とコマのずれはないか。違和感のあるエフェクトは残っていないか。画面の中で流れていく映像を目で追い、気になる箇所がないことを確かめると、編集データを保存した。一体、何時間作業していたのだろう。同居人がおやすみと言いに来てから、もう五、六時間は経っている気がする。その間、日常生活に必要な動作はなんとなくこなしていたはずだ。けれど、この体の凝り具合を考えれば、ほとんど椅子から動いていなかったのだろう。差し込む光の眩しさからして、とっくに早朝を迎えている。眠い目元を指で押さえながら立ち上がり、自室の扉を開けた。
不意に、香ばしい匂いが鼻先を掠める。すん、と小さく鼻が反応した。仄かに漂う香ばしい匂いと、油の熱された匂い。その温かい気配を辿っていくと、ダイニングキッチンに同居人の姿があった。普段なら、まだ眠っている時間のはずだ。キッチンに立つ背中へ近づくと、フライパンに向けられていた顔がこちらを向いた。
「ウルフガード、おはよう」
「あぁ。おはよう、管理人」
挨拶を返すと、管理人の目元がやわらぐ。けれどその眼差しは、すぐにフライパンへ戻ってしまった。ほとんど同時に、焼き上がりを告げるようにトースターが高い音を立てる。漂ってきたパンの香りで、腹が空いていたことを思い出して、小さく腹が鳴る。思わず腹を手で押さえると、素直すぎる体の反応に、頭の獣耳が少しだけ垂れた。その様子に気づいた管理人が、小さく笑う。
「お腹空いてるならよかった。徹夜だったの?」
「あぁ。でもひと段落したから、朝食を食べたら少し仮眠を取る」
「仮眠じゃなくて、ちゃんと寝ないとだめだよ。徹夜した時こそ、健康第一」
管理人はそう言いながら、焼き上がった目玉焼きを白い皿へ乗せた。刻んだキャベツときゅうりを添え、手早くダイニングへ運んでいく。焼けたパンは小さめの別皿へ。冷蔵庫から取り出したバターとジャムも、テーブルの中央に置かれた。一人で朝食の支度を進める管理人のために、せめてコーヒーくらいは淹れようとケトルへ手を伸ばす。しかし、その腕を止めるように、後ろから抱き止められた。
「君は仕事明けなんだから、先に座って食べてて」
あえなく試みは失敗した。手持ち無沙汰になったウルフガードを置いて、管理人はコンロの前へ戻り、自分の分の目玉焼きを焼き始める。先に食べる気にはなれないので、管理人の背後へ近づき、そのまま腰に腕を回して抱きしめた。肩口に顔を埋めると、管理人の体がわずかに竦んだ。
「びっくりするじゃないか」
先に突然抱きついてきたのはそっちだろう。そう思いながらも、口には出さなかった。驚いたにしては声がやわらかいし、少しだけ嬉しそうですらある。鼻先を首元に押しつけ、ゆっくり息を吸う。先ほどまで重かった体が、少しだけ軽くなった気がした。管理人は相変わらず、手を止めずに料理を続けている。抱きしめられていることに慣れたような様子が、少しだけ面白くなくて、ウルフガードは項にそっと唇を押し当てた。今度は、肩がはっきり跳ねる。
「こらっ、危ないよ」
「嫌か?」
「そ、ういうわけじゃ……ほら、冷めちゃうからっ」
耳元まで赤くなっているのは、コンロの前にいるからだけではなさそうだった。ウルフガードは小さく笑い、ようやく腕を解く。仕方なくダイニングへ向かい、椅子に腰を下ろした。頬杖をつき、朝食を用意する後ろ姿を眺める。
焼けたパン。朝の光。管理人の肩越しに立ちのぼる、湯気の匂い。
その穏やかな光景の向こうに、記憶の隅でちらつく昔の姿が重なる。もう、あの頃装着していた源石リミッターはない。いつも追いかけていた長いアウターも、鉱石を纏い、剣を振るう姿もない。時を経て、まったく違う時代を生きている。自分がその記憶を持っていることに、どんな意味があるのかはわからない。それでも、ひとつだけ確かなことがあった。あの頃よりもずっと穏やかに、今は隣にいられている。
「おまたせ。ちょっと時間かかっちゃった」
「いや。朝早くから悪い」
「早く目が覚めただけだから、気にしないで」
管理人が向かいの席に座る。今の時代になってから覚えた食事前の挨拶を言ってから、朝食に手をつけた。