Arknights:Endfield

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ここ武陵は、自然豊かな文明地帯だ。

浸蝕対策事業を展開しつつ発展を続けるこの地では、特に宏山科学院が設置した大規模居住地である武陵城が中心となっている。街を縫うように巡らされた巨大な水利施設と、外敵から街を守る天師杭陣。何年もかけて開発された技術に支えられながら、人々はこの土地で穏やかな暮らしを築いてきた。

成長する文明地帯へ迫る危機を止めるべく、管理人はチェンやペリカと共に武陵へ長期滞在していた。各地でのボーンクラッシャーの出現、清波砦と武陵との関係修復、それに伴う調整や視察。ここしばらく気の抜けない日々が続いていたせいで、全員に疲れが溜まっているのは目に見えていた。

「管理人、ミフさんからの指示があるまでの間、休憩時間を設けるのはいかがですか。チェンも、久々の武陵をゆっくり見てまわりたいでしょうし」

不意にそう言い出したペリカに、チェンが目を丸くする。

「ええっ!いやでも…うーん…久々に武陵を見て回りたいのは本当なんだよねえ」

チェンもいつもの調子を見せているものの、その表情にも少し疲れが滲んでいるのがわかった。

管理人は二人の顔を見比べてから、小さく頷いた。

「……そうだね。せっかく武陵に来てるんだし、空き時間は有効に使おう」

ミフからの連絡があればすぐに武陵城入り口に集まることを条件に、それぞれ城内で別行動を取ることになった。

久々の一人時間だった。

方興街の入口に据えられた龍を象った装飾の前で足を止め、管理人は腕を上げながら大きく息を吸う。街の外には等間隔に設置された天師杭陣たち。そして天師杭陣からゆっくりと流れ出る息壌粒子の向こうには、高く青い空が広がっていた。ゆっくり流れる雲の合間を、渡り鳥たちが横切っていく。

先日までいた四号谷地とはまるで違う。

張り詰めた空気も、殺伐とした空気もない。ここには水の匂いと、人々の暮らしの温度がある。豊かな自然と息壌粒子が入り混じる独特の景色は、連日の緊張がほどけていくような景色だった。

ほんの少しの間、透き通った空を眺めてから、管理人はBakerの画面を開いた。名前の一覧から目当ての人物を探し出し、チャット画面を開く。そこには、任務から戻った旨の簡潔な報告が残っていたところで会話が止まっていた。

指先が少しだけ迷う。

任務後に私的な連絡を入れるのは、相手の負担になるかもしれないことはわかっている。

それでもできることなら、少しの時間でもいいから会いたかった。

武陵の景色を見たとき、真っ先に思い浮かんだのが彼だった。こういう場所を一緒に歩けたらいいのに、と。そんなことを思ってしまった時点で、多分もう答えは出ている。

何度かメッセージを書いては消し、書いてはまた消す。短い一文を送るだけなのに、それがひどく難しい。

しばらく迷った末、管理人はようやく意を決して送信ボタンを押した。

「ウルフガード、今時間あるかな?」

送信されたメッセージを見つめながら、自分でも想像していた以上に返事を待っていた。すぐには返ってこないだろうと思いつつ、ほんの少しだけ期待してしまう。

そんなことを思っていた矢先、画面に入力中の表示が浮かぶ。

思ったよりずっと早い反応に、管理人は思わず目を瞬かせた。

『任務か? どこに行けばいい?』

文面からも生真面目さが伝わってくる。

どうやら本気で任務だと思っているらしい。真面目に返事を打ってくれているだろう様子が想像できて、管理人は一人小さく笑った。離れていても変わらないその実直さが、ひどく愛おしい。

「武陵だよ。座標を送るね」

短く打ち込んで送信すると、続けて協約転送ポイントの座標を共有する。任務でもなんでもないのに、こうして呼びつけることへの後ろめたさはある。けれどそれ以上に、会えるという事実が何よりも嬉しい。

座標を送ると、管理人は再度高い空を見上げた。

「管理人」

聞き慣れた声に呼ばれ、管理人は弾かれたように顔を上げた。

方興街の入口正面からほど近い協約転送ポイントに、ウルフガードが到着した。賑やかな街の空気にまだ馴染まないのか、少し警戒するように周囲を見回している。けれど管理人の姿を見つけた瞬間、その視線は迷いなくこちらへ向けられた。

高い背が人波を抜けて近づいてくる。

見慣れた姿なのに、こうして呼べば本当に来てくれるのだと思うと、胸の奥がくすぐったくなった。

「ウルフガード、お疲れ様。急に呼び出してすまない」

「気にするな。お前からの呼び出しなら、いつでもどこへでも行く」

あまりにも自然に言われて、管理人は一瞬言葉に詰まる。

こういうことを、まるで当たり前のように言ってくるから困る。緩みそうになる口元を誤魔化すように、小さく咳払いを一つしてから、管理人はウルフガードを見上げた。

「今日の任務は、僕と武陵の街をまわることだ」

「それだけか?」

「それだけ」

「……護衛任務ということか?」

「そういうわけでもないんだけど……」

どう伝えたらいいのか迷いながら、管理人は少しだけ言い淀んだ。珍しく歯切れの悪い様子に、ウルフガードは管理人を観察するように見つめたまま、考えるように腕を組む。

短い沈黙が流れたが、その沈黙を破ったのは先に何かへ気づいたらしいウルフガードの方だった。納得したように目を細め、小さく息を吐く。

「なるほどな。俺にしかできない任務ってことか」

ぴくりと、髪の間から覗く獣耳が小さく動く。毛艶の良い黒い尾も、気持ちを隠しきれないようにゆるく揺れた。

組んでいた腕を解いたウルフガードは、ゆっくりと一歩距離を詰める。自分より少しだけ低い位置にいる管理人の耳元に顔を寄せると、ウルフガードは小さく唇を開いた。

「…二人きりの時間を過ごせるってことだろう?」

低く落ち着いた声が、胸の奥まで静かに届く。

管理人は一瞬だけ息を飲んだ。自分で口にするのも照れくさいと思っていた言葉を、代わりに言われてしまう方が余計に落ち着かない。しかしそれと同時に、任務を終えたばかりの彼を自分のわがままで振り回しているような後ろめたさも胸の端に残っていた。

「そう、だよ。でも、任務のあとなのに呼び出したのは、申し訳ないと思ってて…」

ウルフガードは、少し体を離すと小さく肩を竦めた。

「そんなことは関係ない。言っただろう、お前からの呼び出しならいつでもどこへでも行くと」

そう言って差し出された大きな手が、管理人の手を包み込むように掴む。

「管理人、武陵城を案内してくれ」

そのまま、ウルフガードは管理人の手を引いて歩き出した。

「これは、お前にしかできない任務だ」

ただ好きな相手と二人で時間を過ごしたい。それだけのことを、結局自分より先に言葉にされてしまった。

悔しいような、照れくさいような、でもそれ以上に嬉しい。

前を歩くウルフガードを一瞥してから、管理人は繋がれた手を見下ろして小さく笑った。

「了解だよ、ウルフガード」

賑やかな街の活気の中、穏やかな水の流れる音が響く。

そんな街中を並んで歩けることが、ひどく特別なことのように思えた。

合流した場所からすぐ、通りの両脇には飲食店や観光案内所などの建物が並び、軒先には色とりどりの旗や看板が目立っている。道の脇を流れる水路は陽の光を受けてきらきらと光り、街の奥には水利施設を伴った大きな滝が見えた。

「思ったより人が多い場所なんだな」

周囲を見回しながら、ウルフガードが呟いた。

「武陵城には学校や研究施設もあるし、住宅街もあるから自然と人が集まるんだと思う」

「なるほど」

頷きながらも、ウルフガードの視線は街並みだけでなく行き交う人々の動きまで追っている。こういう場所でも警戒を解かないところは、過去の経験からの習性なのだろう。

そのまま歩いていると、行列ができている店が見えた。竹を思わせる淡い緑の意匠で飾られた店先には、大きく「竹ミルクティー」と書かれた看板が掲げられている。甘い香りに混じって、どこか青々しい清涼な匂いが風に乗って流れてきた。

「あのドリンク、武陵で人気なんだって」

管理人が看板を指さすと、ウルフガードがそちらへ目を向ける。

「竹の味がするのか?」

「どうだろう…僕もちゃんと飲んだことはないんだ」

「じゃあ飲んでみるか」

言うが早いか、ウルフガードは列の長さを一瞥し、最後尾へ向かって歩き出した。管理人は慌ててその隣に並ぶ。

順番を待つ間、通りを吹き抜ける風が頬を撫でていく。前の客が受け取った飲み物からは白い湯気が立っていた。メニューを見れば冷たいものと温かいもの、どちらもあるらしい。

「どっちにするんだ?」

「んー、温かい方にしようかな。君はどうする?」

「…なら、冷たい方で」

ほどなくして受け取った竹ミルクティーのカップに口を付ける。ほんのりとした甘さの奥に青い香りが抜けて、思ったよりもすっきりしていた。温かいミルクのまろやかさの中に、武陵の水や風をそのまま溶かし込んだような清涼感がある。

「…思ったより美味しい」

小さく呟くと、ウルフガードが隣でストローに口を付けて一口飲む。

「悪くないな」

味にはあまり期待していなかったのか、少しだけ驚いたように呟くのが聞こえた。基本的に同じ味だとはわかっているものの、せっかくならどちらも味わってみたい。管理人はウルフガードがカップを持つ手をそのまま握ると、自分の方へ引き寄せてストローに口を付けた。一口吸ってみれば、温かいものよりも更に清涼感のある味が口内に広がった。

「うん、冷たいのも美味しいね」

満足そうに言う管理人の様子に、ウルフガードは面喰ったように顔を逸らすと小さくため息をついた。

「…管理人、お前は無防備すぎる」

「ん?そうかな」

「そうだ…食われないように気を付けろ」

「何に?」

「何だろうな。管理人、温かい方も飲んでみたい」

はぐらかすように言うウルフガードの真意を問い詰めようとしたものの、飲み物の要求をされればカップを交換した。「悪くない」と一言言う彼の様子に、同じものを共有できることがこんなにも幸せなことなのだと気づかされる。清涼感たっぷりな冷たい飲み物を飲んでいるはずなのに、胸の奥がじわりと暖かくなるのを感じた。

街の奥へ進むにつれ、香りが少しずつ変わっていく。茶葉の匂い、焼いた菓子の甘さ、香辛料の刺激。やがてある一角で、ひときわ濃い香りが鼻を掠めた。赤い看板と椅子が並ぶ店先では、各席でぐつぐつと鍋を煮立てる音が聞こえている。

「あそこは火鍋の店だよ」

管理人が立ち止まると、ウルフガードも視線を向けた。テラス席はもちろん、店内にもある席には湯気の向こうに楽しそうに卓を囲む客たちの姿が見える。赤いスープの鍋が並び、肉や野菜が皿いっぱいに盛られていた。

「匂いだけで辛そうなのがわかる…」

「確かに…でも、ここは有名店なんだって。宏山のどの店より美味しいって、話してる人たちがいたよ」

「…管理人は食べたいのか?」

「食べてみたいけど…今日は歩きながら食べられるものの方がいいかな」

「なら、後で腹が減ったら来よう」

ごく自然に“後で”が予定の中に組み込まれていて、管理人は少しだけ目を瞬かせる。今日は本当に、時間の許す限り一緒に過ごすつもりでいてくれているようだ。

「うん…そうしようか」

休憩時間がこのまま続いてくれたら。一瞬そんな考えが頭を過り、管理人は息を詰めた。文明がやっと根付いた武陵の地を救うために来ているのに。ここを行き交う人々と同じように、ただ大切な人と平和に暮らす。そんな在り来たりな考えを一瞬持ってしまったが、それを遮るように罪悪感が胸を刺した。

更に現実を思い知らされるように、目の前の景色が目の裏で二重に重なる。

長い水路が伸びる水利施設、流れる風とそれに乗る息壌粒子、高い空。科学技術と自然が織りなす景色に、管理人の足がふと止まった。

見覚えがあるわけではない。
ここへ来た記憶もない。
それなのに、どうしてかこの場所を知っている気がする。

「管理人」

隣から低い声が落ちてきて、管理人ははっと顔を上げた。
ウルフガードがこちらを見ていたが、問い詰めるような視線ではない。ただ静かに様子を伺うような、いつもの瞳だった。

「どうした」

管理人は少しだけ迷ってから、橋の向こうへ視線を戻す。

「…なんとなく、懐かしい感じがするんだ」

「何か思い出したのか?」

管理人の”記憶喪失”についてはオペレーターに共有されている。詳細については知らされていないが。

見たこともない景色に懐かしさを感じるのと同時に、新鮮さと空しさを感じる。複雑な面持ちを浮かべながら、管理人は小さく首を横に振った。

「初めて来たはずなのに、ね」

自分で言ってから、ますます説明がつかないと思った。記憶がないのに懐かしいなど、矛盾している。けれどうまく言い表す言葉が見つからない。

しばらく様子を見ていたウルフガードが、小さく口を開いた。

「そうか」

短い返事だった。
彼なりに気を遣っているのか、それ以上言葉を重ねることはしないでくれた。

「少し休むか?」

「いや、大丈夫。せっかく案内してる途中だし」

「…無理はするな」

心配の言葉を遮るように管理人は先に歩き出した。市民広場に続く道を指すと、いつものように口元に柔らかい笑みを浮かべながら振り返る。

「あっちは市民広場だよ。あの辺り、景色がいいんだ」

「…了解した。案内してくれ」

ウルフガードはそれ以上何も言わず、後を追って足を進めた。

市民広場で羽獣や駄獣と戯れ、木々の木陰を散歩し、次は天師府学院でも見に行こうかと思っていた矢先。

ぽつりと、カップを持つ手の甲に小さな雫が落ちた。

冷たい感触に、管理人は思わず足を止める。
自然と顔を上げれば、先ほどまで快晴だった空には黒い雲が広がっていた。灰色の濃淡を重ねながら、ゆっくりと、しかし確実に街の上を覆っていく。空から零れ落ちる雨粒は次第に数を増し、石畳へ淡い染みを作っていった。

異変に気づいた人々はざわめきながら足早に建物へ走っていく。
露店では慌てて商品を引き込み、布をかける音が響いた。水路のきらめきに重なるように、雨音が街全体を覆い始める。

「管理人、どこか建物に入ろう」

隣にいたウルフガードが管理人の手を掴む。
そのまま近くの軒先へ向かおうとした、その時だった。

「……」

管理人の足が、不意に止まる。

同時に雨音に混じり、持っていたカップが石畳の上に落ちる音が広がった。

「……管理人?」

呼ばれても、返事はできなかった。

行き交う人々の向こう、その視線の先にいる人物だけが、この場にあまりにも似つかわしくなかったからだ。

薄暗い雨空の下でも艶を帯びた銀色の髪。
仕立ての良い紺色の長いジャケット。
激しく落ちる雨粒は確かにその周囲を打っているのに、その人物だけは少しも濡れていない。そこだけ空間ごと切り取られたみたいな、不自然な静けさがあった。

息が詰まる。

それが伝わったのか、ウルフガードが掴んでいた手にわずかに力を込めた。

「また会えたね、管理人」

管理人の喉がひどく乾いた。

「…アルダシル…!」

管理人から名を呼ばれたアルダシルは、安堵したように目を細めた。
待ち続けていたものがようやく目の前に現れた、とでも言うような顔だった。

次の瞬間、管理人は反射的にウルフガードの手を振り解いていた。

「管理人!」

背後から声が飛ぶ。けれど駆けだした管理人の足は止まらない。

雨に濡れた石畳を蹴って、管理人はアルダシルの姿を追った。
人混みの中を滑るように抜けていくその姿は、通行人の流れと噛み合わない。人の身体をすり抜け、誰の視界にも留まらず、ただ管理人の視線だけを導いていく。

規則正しく敷かれた石畳を流れる雨を踏み抜きながら、管理人はその背を追った。

アルダシルは追いつけそうで追いつけない距離を保ったまま、武陵の賑わいから少しずつ外れていく。
やがて、街の喧騒が遠のき、雨音ばかりが近くなる場所で、ようやく足を止めた。

管理人も息を整えながら、その姿へ歩み寄る。

アルダシルはゆっくりと振り返ると、ひどく柔らかな顔で管理人を見た。

「……やっと二人きりだね、管理人」

「何をしに来たんだ。君の目的はなに?」

管理人が低く問うと、アルダシルは少しだけ寂しそうに笑った。

「…君と話したかったんだ」

静かな、でもひどく優しい声だった。まるで昔からの友人に再開したような、懐かしくも切ない声色。

アルダシルは管理人から視線を逸らさないまま、ゆっくりと口を開いた。

「君はまた同じことを繰り返そうとしている」

その一言に、管理人の眉が寄る。

「世界のために、君がこれ以上何かを失う必要はないんだ」

雨音が妙に遠くなる。痛みを知っている者が、それでも見過ごせないものに触れる時の声音だった。

「何かを守るために、何かを失うことを選んだ。それ自体を間違いだと言いたいわけじゃない」

一歩、距離が近づく。

「でも君はいつだって、最後に自分を擦り減らしてしまう」

管理人の指先がかすかに強張る。

「その結果が今だ」

アルダシルの視線が、まっすぐ管理人を射抜く。

「何を守ったかも、何を失ったかも、自分が何を選んだかすら曖昧になるほど、自分を擦り減らした」

胸の奥がざわつく。
武陵で感じた既視感も、空白の記憶も、今の自分が抱えている不安も、その言葉に無理やり形を与えられていく気がした。

「君自身は、それで本当に救われるのかな」

アルダシルの声は、ひどく優しい。

「世界のために自分を削って、大切なものを手放して、それでもまだ周囲の期待を背負って前へ進もうとしている」

また一歩距離が近づく。

「そんな生き方の先に、君自身の救いはあるの?」

管理人は何も言えなかった。

武陵がどうとか、あの時の選択がどうとか、そういうことじゃない。もっと根深いところを見透かされている。

いつも、何かのためなら自分を後回しにしてしまう。
守るためなら、失っても構わないと思ってしまう。
その果てに、今のこの空白があるのだとしたら。

「……お前に何がわかる」

ようやく出た声は、思ったよりも掠れていた。

アルダシルは悲しげに目を細める。

「わかるよ…全部、見てきたからね」

即答だった。

片手を差し出しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「君が誰かのために傷つくたび、平気な顔をして立っていたのを知ってる。苦しいはずなのに、自分だけは後に回して、そうして最後には何も残らなくなることも。僕は今の君以上に、君を知っているよ」

差し出された手が、雨の中でも白く見えた。

「もうやめてほしいんだ」

その声は、今までで一番切実だった。

「自分を削る生き方を。世界のためなら君が壊れてもいい、みたいな世界の選び方を」

後ずさりしたいはずなのに、足は石畳に張り付いたように動かない。

「君はもっと、自分のために生きていい」

距離が縮まるのを拒否できない。

「君が君自身を置き去りにしたまま進まなくて済む道があるなら、僕はそれを一緒に歩きたい」

アルダシルの口元がわずかに震える。

「だから、僕の手を取って」

その言葉に、管理人の胸の奥に押し込めていたものが揺れた。

過去を知りたい気持ち。
空白の理由を知りたい気持ち。
それ以上に、自分が本当にこれでよかったのかと問い続けてきた、言葉にならない不安。

もしこの手を取れば、その答えに触れられるのだろうか。
もし本当に、自分を擦り減らすことをやめられるなら。

気づけば、管理人の指先は無意識にその手へ伸びかけていた。

アルダシルの表情が、歓喜に近い色で揺らぐ。

次の瞬間。

鋭い銃声が雨音を切り裂いた。

アルダシルの足元へ、静かに銃弾が突き刺さる。
弾丸が埋まった石段は赤く焼け、空からの水を受けて細い煙を吐いた。

「…管理人から離れろ」

背後から落ちた声に、管理人ははっとして振り返る。

銃を構えたまま管理人とアルダシルの間に割って入ってきたウルフガードに、アルダシルは深くため息をつくとふわりと体を浮かせて管理人と距離を取った。
濡れた黒髪の下で灰色の瞳が鋭く細められている。表情は冷静だが、その奥に滲む怒りは隠しきれていなかった。

アルダシルはウルフガードを一瞥してから、軽蔑をするかのごとく小さく鼻で笑って見せた。

「…君が、今の管理人を繋ぎ止めてるんだね。君みたいな賢くない犬にはわからないよ、管理人が何を削ってここまで来たのか」

先ほどまで穏やかだったアルダシルの表情が歪む。その言葉には、苛立ちが色濃く滲んでいた。

「管理人…君が今を選ぶたび、君自身は擦り減っていくだけだよ」

管理人に向ける声音はやはりひどく優しいものだった。

そう言った矢先、アルダシルの姿がふっと消える。

「っ……!」

次の瞬間には、ウルフガードのすぐ脇をすり抜けるように現れ、管理人との距離を一気に詰めた。

目の前に現れたアルダシルに、管理人は思わず身構える。

「またね、管理人」

囁くような声だった。

「次こそ、考えを変えてくれるといいんだけど」

柔らかな笑みを残したまま、その身体はそのまま管理人の輪郭をすり抜けて消えた。

同時に、雨が止む。

ついさっきまで武陵全体を覆っていた黒い雲は、最初から存在しなかったみたいに薄れていき、空の向こうから光が差し込む。濡れた石畳だけが、今の出来事が幻ではなかったことを示していた。

「管理人っ、大丈夫か…?」

一瞬の出来事に反応しきれずにいた管理人の顔を、ウルフガードが覗き込む。
その表情には明らかな心配が滲んでいた。

先ほど見たアルダシルの顔が脳裏に残っている。
執着と願望がねじれた、あのひどく優しい顔。
その残像に重なるように、今度はウルフガードの顔が映る。持っていかれそうになっていた意識を、その眼差しが現実へ引き戻した。

「…、…ウルフガード」

「悪い。止めきれなかった」

短くそう言ってから、ウルフガードは管理人の肩や腕、顔色を確かめるように目を走らせる。

「何か違和感はないか。痛むところは?」

管理人は小さく首を横に振った。
それを見て、ウルフガードはようやく息を吐く。

「…あいつは、昔のお前を知っているんだな」

過去を思い出せないという不安に付け込まれたことは自分でもわかっている。しかし、その不安のせいで揺らいでしまったのも事実だった。管理人は、先ほど差し出しそうになってしまった自分の手に視線を落とした。

「管理人」

名前を呼ばれて顔を上げる。
まっすぐに見つめてくる焔色の瞳と視線が絡んだ。

「過去とどう向き合うかは、お前が決めることだ」

ウルフガードの声は低く、静かだった。

「過去がわからないまま生きるのか、知ろうとするのか。それもお前次第だ」

距離が詰まり、そのまま片腕で抱き寄せられる。
濡れた衣服越しの体温が、じわりと冷えた身体へ広がっていく。

「どんな過去があろうと、俺のお前への気持ちは変わらない。お前のためならいつでもどこへでも行く」

その言葉が、胸の奥で燻っていた不安を静かにほどいていく。
過去を知ることと、今を生きることとは違う。知らない過去を抱えたまま今を生きてもいい。
そう言われた気がした。

管理人はウルフガードの胸元へ額を寄せたまま、小さく息を吐く。
それから今度は迷わず顔を上げた。

「…どんな過去があったとしても…今を生きるよ」

少し高い位置にある、焔色の瞳を見返す。

「君と」

はっきりと言葉にした瞬間、胸につかえていたものが少しだけ軽くなった気がした。

抱きしめる腕が少し強まる。濡れた石畳に、抱きしめ合う二人の姿が映っていた。

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